大阪ひろいよみ

 きまぐれ大阪雑談まとまりはありません

道頓堀の雨に

コロナ下ということもあるけれど、加えて、急に膝が痛い人になってしまって、街歩きはますます無理になっている。膝のほうはだんだんマシになってきているので、これは一時的なものだろうと思いつつ借りたままの本を読む日々。図書館が臨時休館なので自動的に貸し出し延長となり、おかげで長らく借りたまま。

 

「上方」19号(昭和7年)に、岸本水府の「思い出の夜店」という短い文章が載っている。その挿絵が気になった。吉田清という人の筆だが、あの、田辺聖子「道頓堀の雨に別れて以来なり」の綺麗な表紙絵を思い出したからだ。タッチや醸し出す雰囲気が似ている。吉田清は水府の創作的お仲間のような人らしく、他にも水府の挿絵を描いているようだ。「道頓堀の、、」の表紙絵は、吉田清の雰囲気をオマージュすることで水府たちの時代の空気を表現したのかもしれない。

 

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 これ単行本で持っていたが大きくて場所を取るので、つい売ってしまった。でもとてもきれいな絵なので、やっぱりまた欲しい。本文、実はまだ読み切れなかったまま。

 

 

西成ライオットエール 

、、って、いつ買えるの?

 西成暴動の時の伝説から生まれたという、就労支援の一環としてごくわずかに作られ、ほぼ花園とかあたりで売り切れてしまうらしい幻のビール「西成ライオットエール」 いちおうネット販売というのもある。が、「ただいま売り切れ」という文字が定番文句。

 

それとは関係ないが宇野マサシ「西成の記」という冊子のような本を借りてきた。

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放浪の画家宇野マサシは愛知の人だが、若い頃に西成に住んだことがあり、その記憶から、どうやら変わりゆく気配のある飛田などを描いておきたいという思いで、還暦すぎていわゆる「ドヤ」に住み込んで街を描いた。2012年のこと。

 その頃すでに町は、かつてのような日雇い労働者の地ではなく「生活保護」の文字が目立つところとなって、かつての活気はなくなっていたという。

 その後、西成は変革していくこととなり、ライオットエールが生まれることになったのもその過程でのことなのだろう。

 宇野マサシのとらえた2012年の町の印象。

 町が老いるというのは、潤いを失くすからだろう。/  世界全体が、潤い薄くなっている、と僕は感じるが、それは世界が老いている、と言えるかもしれない。/  何度目かの変革期、その晩期の老いの季節に、現在は位置しているということを肌で感ずるのは僕だけだろうか。

 

 現象的にみると、変革期の西成(というか更にいうと大阪)に、今はなっているのかもしれないけれども、変革して、そして新しく生まれ変わっていく時なのかもしれないけれども、とにかく政策の動きはそうなっているのらしいけれども、”世界全体が潤い薄くなっている”という画家の言葉につられ、なにかしら底のみえない場所に佇んでいるかの思いが募る。

 

 

ぼくの旅 放浪と人と絵と

ぼくの旅 放浪と人と絵と

  • 作者:宇野 マサシ
  • 発売日: 2014/04/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 伝説の画商木村東介に見出され、洲之内徹のコレクションともなっっている宇野マサシの絵。現物を観る機会があまり得られない。

 

川口のジオラマ

 先日、肥田皓三さんが亡くなった。一度だけ講演に伺ったことがあるが、あとは著書が何冊か、まだ読み切れずに積んであるといったところで、そう熱心な読者とはいえない。でも、ひとつだけ、肥田さんに習っていることがある。それは「郷土研究上方」を読むこと。肥田さんは全部読み通されたそうで、それは自分には無理だと思うが、わかるところ、関心の持てるところ、それだけでも漏らさず拾っていきたいと思い、中央図書館で繰り返し借りだしている。

 

 「郷土研究上方」を借りる際に、ついでに、中央図書館3階にあれこれとある個人やグループによる郷土誌の面白そうなものをみつけては借りる。このあいだは「大阪開港150年安治川の今昔 北村一男」を借りてきた。北村さんは川口の町づくり会の方らしい。

 表紙写真が川口の港のジオラマ

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 これは、今はなき「海の時空館」に展示されていて、閉館後は、中之島図書館の開港?年展だかに登場したことがあるそうだが、現在はどこに所蔵されているのかわからない。

 「海の時空館」は、なにか海洋関係の展示があるのかと思い、とくに自分が興味のありそうなところではなさそうだと思い込んで、残念ながら行ったことがなかった。復元菱垣廻船なんてものもあって、それは知っていたのだけれど、こんなジオラマや川口に関する展示があるのは知らなかった。

 広報などがいまひとつだったのも閉館を招いた一因では?と言いたくなったりするけれど、実はあの建物は作る前から維持は無理そうなものだったとか。だからこれに関しては別に橋下府政が潰したということではなさそう。

 それはともかく、見たことないので是非みたいこれ。すごいやんこのジオラマ

 

上方風雅信―大阪の人と本

上方風雅信―大阪の人と本

 

 

 

 

賑橋バス停

小野十三郎雑話集 千客万来」に、小野の実母の家が賑橋の袂にあったことが書かれてある。小野は大和郡山で里子として幼少期を暮らすが、里子先のおばあさんが亡くなって、小学五年の春に大阪の実家に戻される。

 話はちょっと複雑で、実家の母というのは継母であり、生みの母はまた別の所に暮らしているのだった。郡山を経って夕刻に湊町に着いたその日、ともに出てきた姉に、ないしょやで、と囁かれながら、まずそのほんとうの母の所に行く。

 その家が、湊町近くの賑橋の袂だったという。

 

  実は読んだ時、賑橋て、どこ? と思った。

 私は難波近辺で育ち、御堂筋と千日前通りの角で小学区の違う級友たちと待ち合わせて中学に通ったのだし、長じて北摂の人となってから後にも、もちろん難波辺りくらい、なにかと歩き回っているのだ。が、賑橋という場所は、知らなかった。

 地図で探してみて、賑橋は、元町一丁目あたりのバス停だと知った。バス停以外に、その辺りのどこそこが賑橋だとかだったとかいうことはない。バス停が賑橋である。今は。でも小野十三郎の母の家があった頃はそうではなかっただろう。

 賑橋は道頓堀から難波御倉(江戸時代の米倉。現なんばパークスの所)への水運のために掘られていた難波新川にかかっていた橋だ。難波新川は、高津入堀川と同じく、昭和33年に埋め立てられたが、賑橋の名は、バス停の名で残っている。

 バス停の名前というのは、こんなふうに、失われていく歴史的な土地の呼び名を残しているケースがよくあって、いいものだな。

 

 

 

 

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大阪の墓

 先日、梅田墓跡人骨1500体発見というニュースがあったが、大阪市内ってそもそも範囲が狭いので、実のところ七墓のみならずやたらあっちこっちに元は墓があって、あっちもこっちも骨が埋まりまくっているのではないか?

 最近になって、自分が育ったところの傍のいまは無い橋を渡ったあたりも維新前ころまで墓地だったらしいことをついに発見してしまったので、そう思う。前々から怪しい気はしていたのだが、やはりそうだったのだ。

 ここ数日「上方」の56大阪探墓號というのをみていると、ほんとにあちこち元墓地だらけだなと思ったことだった。けれども今回見つかった梅田の墓地にしても、うちの近辺のいまはないし誰も知らない墓地にしても、そのうち消滅したわけだ。消滅しないのは、トクベツな方々のお墓だけで、普通人のお墓はそのうち消滅しやすい。そこで!大々的に売り出されたのが「何々家の墓」っていう商品ではないか?なにしろ代々守っていくので子孫が続くかぎり消滅いたしません!というウリで。

 どこもかしこも上も下も「何々家の墓」だとかで、大層な理屈をこねて守らねばなりません、とやってきたのは、実はごく最近からのことだろう? そして、ぼちぼちその「短い伝統」も擦り切れてすたれていく模様だ。いちはやくその動きをみた察しのよい寺などはすでにいろいろな方策をとっている。たとえばペットのお墓の寺になるとか。

 あれ?たまに書いたら変な方向に話がいってしまった。。

 

生玉公園地下壕

 

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  先に、生玉富士というのがこのあたりにあったらしい、と書いた生玉公園西口の崖だが、その下には実はトンネル状に掘られた地下壕があり、それが旧陸軍に関係した防空壕であると言われており、1991年に、閉鎖されていた壕の口を開けて公開され、見学調査されたということだ。

 壕の内部はアーチ状コンクリート造り 幅9メートル 高さ6.5メートル 長さ24メートル という大きなもので、2階立てつくりになっていたもよう。

 戦争初期の新聞にこういった防空壕を作る予定だという記事があるので、秘密裏に作っていたというわけではなく、しかし、一般に使用されたというわけでもなく、その後何十年も人々に知られず眠っていた。

 このあたりは、空襲ですっかり焼け野原になった。この生玉公園の傍といってもよいような所に住んでいたうちの身内などはすでにおおむね疎開していたらしいが、残っていた人々はどこに逃げたのだろうか。

 町の中に戦争の残骸がたくさんまだまだ眠っているらしい。

 ー写真は「大阪の歴史」36(大阪市史編纂所)よりー