大阪ひろいよみ

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すじかい橋 大阪江戸堀

高麗橋筋を西へ西へと歩いて行くと、阪神高速に交差する。 そこのところで道が急に斜めで、 なんだか地味になる。 高速道路の下なので地味なのは仕方ないけれど。

 

写真の向こう側 高麗橋方向から いま歩いてきた(黄色矢印)

すると この道となるのだ

黄矢印を真っすぐに描いてしまったが、実際には真っすぐには進めない。前に進みたいならば、この写真のメインである、このなんだか地味な道に進むことになる。

写真わかりにくいが、これは曲がり道ではなくて、斜めになっている道だ。ここで直進したいならば、この斜めの道をいくことになる。

 

 上方に覆いかぶさるのが阪神高速で、下は昭和30年代まで西横堀川だったのを埋め立てた跡地だ。そうそう、元は川だったところに渡っているこの斜めの地味な道は、川を渡る橋だったのだ。橋がそのまま斜めの道になって生き残っている。

 橋だったころには、すじかい橋(筋違橋)といった。斜めの橋のことを「すじかい橋」といい、けっこういろんなところにあったものだという。

 

で、橋がなんで斜めに渡っているのか?

 

答えは、

向こう側も川になっていて、まっすぐの橋は架けられなかったから。

??

つまり、高麗橋筋を歩いてきてぶつかった西横堀川、その対岸には、別の川がドッキングしていたのだ。川がT字状態になっていたのだ。西横堀川の上横一。そこから真っすぐの橋にしたら、の縦一に沈んでしまう。だから、橋は斜めになった。

 

西横堀川にドッキングしていたのは土佐堀川

地図中のグリーン線がすじかい橋。まっすぐ架かっていたら江戸堀川に沈んでしまうのだ。

 

いっぽう、ドッキングしているほうの土佐堀川にも南北の橋がかかっている。

この橋と、すじかい橋。ふたつの橋は、見る場所によっては交差しているように見えたことだろう。こんなふうに。

 

(織田東禹「大阪すじかい橋」大正2年

京都星野画廊「大阪の画家と作品」発掘顕彰展の案内より

 

実は、私は、数ヶ月前にこの絵を観て、すじかい橋のことを知った。

橋がこんな具合になっているのなら四ツ橋?と思ったら、そうではなくて、すじかい橋だという。なんだそれ?ということで、ネット検索等うろうろして、なんとかまあわかったのだが、しかし、どの説明を読んでも、実際なにがどんなふうになっていたというのかが、よくわからなかった。現地に行ってみても、やはりよくわからない。川も橋も今は無いので。イメージ湧かないのだった。

わかってみれば、要するに、T字になったふたつの橋の東西方向と南北方向に橋が架かっていた、というだけのことなのだが。

と言葉で説明されても、ふつう、ちょっと混乱しないだろうか。

そこで、やっぱり地図がよくわかる。

 

大阪市パノラマ地図 大正12年

 

なんでも、もっともっと昔には、橋がT字に架かっていたらしい。さすがに修理等が不便だからこの形になったと言われている。

 

フェスティバルホールも向こうに望めるような地域ながらも、いまでは都会の裏側になっているこの場所だが、織田の絵を見ると、土佐堀沿いの蔵や行き来の舟もみられる、そんなところだったようだ。

すじかい橋周辺 いまは無きもの 橋と堀川

昔なく今あるものは 靱公園

昔も今もあるものは 御霊神社

 

西横堀埋め立て跡ここいらはずっと駐車場になっている。駐車場入り口に橋の親柱(昭和3年に架け替えられたもの)と案内碑。

なお、T字の橋だったときには木橋(しゅもく橋)と呼ばれていたらしい。撞木とは鐘を叩くT字型の棒。で、その名残で、ふたつの橋に別れてからも江戸堀川にかかった橋はそのまま木橋とされていたそうだ。その木橋の碑も近辺にあるらしいのだが、今回は知らず見落としてしまった。

 

ところで、あとでみたら、この橋のことは、本棚に並べてある「大阪橋ものがたり」に載っていたのだが、きっと、なんだか話がよくわからないので、読みとばしてしまっていたのだと思う。