大阪ひろいよみ

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賑橋バス停

小野十三郎雑話集 千客万来」に、小野の実母の家が賑橋の袂にあったことが書かれてある。小野は大和郡山で里子として幼少期を暮らすが、里子先のおばあさんが亡くなって、小学五年の春に大阪の実家に戻される。

 話はちょっと複雑で、実家の母というのは継母であり、生みの母はまた別の所に暮らしているのだった。郡山を経って夕刻に湊町に着いたその日、ともに出てきた姉に、ないしょやで、と囁かれながら、まずそのほんとうの母の所に行く。

 その家が、湊町近くの賑橋の袂だったという。

 

  実は読んだ時、賑橋て、どこ? と思った。

 私は難波近辺で育ち、御堂筋と千日前通りの角で小学区の違う級友たちと待ち合わせて中学に通ったのだし、長じて北摂の人となってから後にも、もちろん難波辺りくらい、なにかと歩き回っているのだ。が、賑橋という場所は、知らなかった。

 地図で探してみて、賑橋は、元町一丁目あたりのバス停だと知った。バス停以外に、その辺りのどこそこが賑橋だとかだったとかいうことはない。バス停が賑橋である。今は。でも小野十三郎の母の家があった頃はそうではなかっただろう。

 賑橋は道頓堀から難波御倉(江戸時代の米倉。現なんばパークスの所)への水運のために掘られていた難波新川にかかっていた橋だ。難波新川は、高津入堀川と同じく、昭和33年に埋め立てられたが、賑橋の名は、バス停の名で残っている。

 バス停の名前というのは、こんなふうに、失われていく歴史的な土地の呼び名を残しているケースがよくあって、いいものだな。

 

 

 

 

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