天神橋の夜景
このごろ、天神橋の夜景が好きになっている。
ここを南下していけば実家があるのだが、以前はあまりここは使わなかった。
半年前から夜中に走る状況が多くなったため、昼間は降り口混雑がこわいが夜中ならがら空きの新御堂を使うようになり、それでここに回ることとなった。それで、天神橋の夜っていいなあと思った。今までは知らずにいた大阪風景だった。
うちは生玉神社高津神社の地域なので、子供の頃に天満天神に行くということはほとんどなかった。天神さんのあたりの風景はだから、ずっと後年になって出会っていったものだ。
天神橋の夜景。都会の夜景として光が頃合い。ケバくないし地味すぎでもない。このくらいがいい。眺めとしては。
名村造船所大阪工場跡
秋のはじめ頃に、クリエイティブセンター大阪というイベント等の大きな施設として使用されている名村造船所工場跡地に行った。写真は、工場裏の突堤の先っぽからの写真。目の前は、もうすぐそこが海ながらまだ木津川部分。向こうは船町という所で、その向こうにIKEAの鶴町がある。
大正区もほぼ知らない私だが、住之江区のとくにこの海側の辺りは、最近までまったく知らない所だった。したがってその歴史も少しも知らない。いまのところ得られたそれらしき知識としては加賀谷という周辺地名が新田開発者の名前らしいということだけ。そんなではあるが、ここらの木津川はゆったりした感じやなあとか思った。
クリエイティブセンター周辺も、アートスポットになっていたりして、大きなアートイベントの日にはにぎわうのだろう。
すじかい橋 大阪江戸堀
高麗橋筋を西へ西へと歩いて行くと、阪神高速に交差する。 そこのところで道が急に斜めで、 なんだか地味になる。 高速道路の下なので地味なのは仕方ないけれど。
写真の向こう側 高麗橋方向から いま歩いてきた(黄色矢印)
すると この道となるのだ
黄矢印を真っすぐに描いてしまったが、実際には真っすぐには進めない。前に進みたいならば、この写真のメインである、このなんだか地味な道に進むことになる。
写真わかりにくいが、これは曲がり道ではなくて、斜めになっている道だ。ここで直進したいならば、この斜めの道をいくことになる。
上方に覆いかぶさるのが阪神高速で、下は昭和30年代まで西横堀川だったのを埋め立てた跡地だ。そうそう、元は川だったところに渡っているこの斜めの地味な道は、川を渡る橋だったのだ。橋がそのまま斜めの道になって生き残っている。
橋だったころには、すじかい橋(筋違橋)といった。斜めの橋のことを「すじかい橋」といい、けっこういろんなところにあったものだという。
で、橋がなんで斜めに渡っているのか?
答えは、
向こう側も川になっていて、まっすぐの橋は架けられなかったから。
??
つまり、高麗橋筋を歩いてきてぶつかった西横堀川、その対岸には、別の川がドッキングしていたのだ。川がT字状態になっていたのだ。西横堀川がTの上横一。そこから真っすぐの橋にしたら、Tの縦一に沈んでしまう。だから、橋は斜めになった。
地図中のグリーン線がすじかい橋。まっすぐ架かっていたら江戸堀川に沈んでしまうのだ。
いっぽう、ドッキングしているほうの土佐堀川にも南北の橋がかかっている。
この橋と、すじかい橋。ふたつの橋は、見る場所によっては交差しているように見えたことだろう。こんなふうに。
(織田東禹「大阪すじかい橋」大正2年
京都星野画廊「大阪の画家と作品」発掘顕彰展の案内より
実は、私は、数ヶ月前にこの絵を観て、すじかい橋のことを知った。
橋がこんな具合になっているのなら四ツ橋?と思ったら、そうではなくて、すじかい橋だという。なんだそれ?ということで、ネット検索等うろうろして、なんとかまあわかったのだが、しかし、どの説明を読んでも、実際なにがどんなふうになっていたというのかが、よくわからなかった。現地に行ってみても、やはりよくわからない。川も橋も今は無いので。イメージ湧かないのだった。
わかってみれば、要するに、T字になったふたつの橋の東西方向と南北方向に橋が架かっていた、というだけのことなのだが。
と言葉で説明されても、ふつう、ちょっと混乱しないだろうか。
そこで、やっぱり地図がよくわかる。
大阪市パノラマ地図 大正12年
なんでも、もっともっと昔には、橋がT字に架かっていたらしい。さすがに修理等が不便だからこの形になったと言われている。
フェスティバルホールも向こうに望めるような地域ながらも、いまでは都会の裏側になっているこの場所だが、織田の絵を見ると、土佐堀沿いの蔵や行き来の舟もみられる、そんなところだったようだ。
すじかい橋周辺 いまは無きもの 橋と堀川
昔なく今あるものは 靱公園
昔も今もあるものは 御霊神社
西横堀埋め立て跡ここいらはずっと駐車場になっている。駐車場入り口に橋の親柱(昭和3年に架け替えられたもの)と案内碑。
なお、T字の橋だったときには撞木橋(しゅもく橋)と呼ばれていたらしい。撞木とは鐘を叩くT字型の棒。で、その名残で、ふたつの橋に別れてからも江戸堀川にかかった橋はそのまま撞木橋とされていたそうだ。その撞木橋の碑も近辺にあるらしいのだが、今回は知らず見落としてしまった。
ところで、あとでみたら、この橋のことは、本棚に並べてある「大阪橋ものがたり」に載っていたのだが、きっと、なんだか話がよくわからないので、読みとばしてしまっていたのだと思う。
なにわ筋 秋の夜の銀杏
もう季節は終わってしまったけれど
御堂筋よりもこちらがおすすめだった
都会の夜の銀杏並木
御堂筋の秋の夜は、電飾カラーストリートになってしまうけれど、
なにわ筋では、銀杏がこのとおり、街の灯りに照らされていた。
なにわ筋は今ではビジネス街ありちょっとした若い街もあり、
夜のそぞろ歩きに向いてるよ。
ところで、
なにわ筋の並木はいつから銀杏?気が付いたら銀杏だったが。
銀杏といえば御堂筋ということで広く通っているので、観光客が悩むようだ。
え?ここが御堂筋??と。
でもいまや、電飾のために黄色い葉がぼそぼそに刈り取られる御堂筋よりも、
なにわ筋のほうが、秋のお昼だって、いい感じかも。靭公園もあるし。
船場の浮世小路
今橋と高麗橋の間にあった浮世小路。西鶴にも登場しているけれど、近代以降は、忘れられていたと思う。 私がこの浮世小路のことを知ったのは20年くらい前、織田一磨のリトグラフを見てのことだった。浮世小路といえばミナミ道頓堀にあるあの通路(今はない)、と思っていたので、なにそれ? となった。
探しに行ってみると、そこは都会の片隅のなんでもない細い道に過ぎなくて、ランチを食べるような普通な飲食店がいくらかあるだけ。かつての面影は全くないもよう。ほんとになんでもないので、ほんとにここなのかな?と半信半疑だった。
その後、特にその辺りに用向きもないので通りかかることもなく忘れていたのだが、きょうたまたま行ってみると、写真の如く堂々「浮世小路」と街路板が立っている。
写真中央の道は三休橋通り。交差しているのが浮世小路。右に行くと堺筋、左に行くと御堂筋。
歴史的建造物がいろいろとあるこのあたりの町おこしの一環で、浮世小路も見直されたのだと思われる。土蔵が並ぶ裏通りに出会い宿や色街関連の間口があったという秘められた場所だったのものが、これは歴史遺物ということになると晴れのスポットライト浴びちゃったという感じだ。
「無縁声声」平井正治を読む
新版の冒頭前書きで高村薫さんが、釜ヶ崎に近い所で生まれて幼いうちに越したが原風景に阿倍野界隈にみたものがあると書いておられる。彼女とは反対側になる難波圏だが、私もわりと釜ヶ崎に近い所で育った。
ずっと前に使った写真の使いまわしだが、この右端のおじさん、リヤカーに段ボールを集めて運んでいる。昔はもっと派手に積んだおじさんたちがここいら歩いていた。それは日常で、ここらの子供の私はとくになにも考えなかったが、彼らは何者かというならば「クズやさん」なんだろうとは思っていた。ただ、随分たくさんのクズやさんがずいぶんたくさんのクズを運んでいるなという印象はあった。
向こうの通り松屋町筋を越すと上町台地。見えているのは大蓮寺という寺経営の幼稚園。大昔ははここに寺の鐘が見えていて、ここは鐘筋といった。ここから南=右側に数百メートル行ったあたりに、釜ヶ崎と呼ばれた街はある。そこにおじさんらの集めた山もりの段ボールを買う「寄せ屋」がある。
平井さんは主に港湾労働者だったが、廃品回収をすることもあったそうで、「寄せ屋」の説明も詳しい。
この本、最初に読んだときは、冒頭いきなり「四〇年ぶりに明かす話なんですけど、僕、平井やないんです。」というのに驚かされた。え?戸籍のない人なのか、と思ってしまった。よくよく考えればそうではなく、戦後の住民登録法という制度にさからってそのまま住民登録をしなかったということだった。つまり、住民票がないだけで、戸籍がないわけではない。ただ戸籍とそれにまつわる来歴を、捨てて、平井になったということだ。
そういう人ならば、釜ヶ崎には他にも普通におられるだろう。最近では彼らにコロナ予防注射をどうやれば受けてもらえるのかというようなことが問題になっていたりする。だから、平井さんが実は平井さんでないのは、そんなにも驚くことではなかった。
丁稚奉公先から逃走する戦前の生い立ち、海軍から復員後の共産党との出会いと別れ、そして釜ヶ崎へ、という人生の変遷に沿って語られる大阪という産業都市の裏歴史
が圧巻で、驚きだ。体験+知識。底辺労働者たちの存在と、それなくしては成り立たなかった都市の歴史が、大量の知識によって語られる書籍はいくらもあるだろうが、まず体験がベースというのが他には得られない貴重さだ。
この本では、古い昔や戦前のことなどで知らなかったことをいくつも知らされたけれど、なんと、自分がええ大人だった時代の知らなかった「天王寺博覧会」のことも、この本で知って自分でも知らなかったことに驚いた。なにそれ?そんなんあった?
なんで知らなかったのか?いや忘れてしまっていたのか?謎。
1987年の開催らしい。うーん?仕事忙しかった?
この博覧会のために、公園の木がみななくなって、図書館もなくなって、美術館は中止だったらしい。で、公園は、博覧会の赤字解消のために有料になった。そして、公園の野宿者は追い出されて四天王寺に行ったが、四恩の地だったはずの四天王寺は文化財保護のため門を閉めた。
というような博覧会だったらしい。そういえば、私、90年代近くになって、昼間でも時間が空くことがある仕事になって、久しぶりに天王寺美術館にも行くようになって、公園が有料になっていることをはじめて知って驚いたんだった。公園は、すっきり綺麗なのかもしれないが、あんまりいい感じではない変化を遂げていた。あれは、そういう状況で起こったことだったのか。
しかし、知らなかったとしても或いは知ってはいたけどすっかり忘却したのだとしても、大阪人であってしかも決して催し等に関心がないわけではない自分が、なにそれ?と思う博覧会って、すごいな。子供主体のものだったらしいが、それにしても。
検索してみたが、博覧会キャラクターにもまったく記憶がない。
黒門市場と高津入堀川
黒門市場の発祥は19世紀江戸時代の寺の黒門の前の鮮魚商、と、最近は平然とあちこちに書かれてあるのを見かけるのだが、この説は立証されたのだろうか?黒門市場の名前と発祥は諸説あって謎だったと記憶するが。
黒門市場は住所でいうと、今は日本橋だが、昭和の頃は高津9番町周辺、そのまた昔は西高津新地2丁目周辺。その、高津9番町の住人だった綿谷武兵衛さんの私史 ※「高津の宮の昔より」によると、明治初年の頃はまだ市場の態ではなく、らしくなりつつあった段階だとか。又船で道頓堀から入った魚や野菜を商う露天商が、日本橋南詰から南へ、長町筋(=堺筋)に店を広げていた。
とはいっても武兵衛さんは昭和の人なので、これは西高津新地2丁目時代の住民だった祖父母等から聞いたことなのだろうが、なにしろ黒門市場で育った方の話なのだから信憑性がある。
露天商が出始めていたという日本橋南詰からどんどん南にくれば、現在の黒門市場の西側に着くので、やがてここが市場として定着したのだろう(博覧会の際に露天商たちが堺筋から追い払われたのだという説もある)。
ところでまた現在の黒門市場の東側には高津入堀川が流れていたので、そちらからの荷揚げも便利だ。
黒門市場から一筋手前の元高津入堀川沿いの民家が、現在でも、そういった荷揚げに便のよかろう造りを残していた。入堀川側から黒門側まで一階が突き抜けているのだ。
今現在、黒門市場はアジア観光用マーケットに変貌してしまったので、それも変わってしまった様相だが、ほんの10数年ほどまえまで、実際に魚を扱っている家も見受けられた(入堀川はないのでトラックで運んでだろうけれど)
高津入堀川は昭和33年に埋め立てられた。私はその周辺でその数年前に生まれているのだが、そこに住むのは昭和40年代になってからだったので川だったのは見ていない。
※「私史・おおさか1・夜明け前 高津の宮の昔より」綿谷武兵衛 大阪市立中央図書館蔵
この本では、露天商の移動は内国博覧会がらみで、黒門市場の開業は明治35年3月15日であるとしている。当時の新聞記事をあたっての説。