大阪ひろいよみ

 きまぐれ大阪雑談まとまりはありません

伝法あたり 去年の秋

90日ム投稿になってしまったので、なんか書いとこっ! 

以下そういう内容のもの

 

どこだっけ?

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たぶん、伝法のお寺。正連寺?

大阪道。。坂じゃなくて阪だ

創建は古いけれども、モノはおおむね明治初頭らしい。

 

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写真はすぐ整理しないと全然わかんなくなってしまう。

 

そろそろ少しはでかけてみよう。

 

生玉さんの浪速富士を発見

 コロナウイルスの影響もなんのその、連休明けの25日なので駐車場がいっぱい日本橋近辺。仕方がないので松屋町筋のコインパーキングに止めたが、用事はすぐに済んだ。でも60分止めな損やろ、ということで、生玉公園に久々上ってみた。

 

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 生玉に明治の頃、ほんのいっとき「浪速富士」なるものがあった。と、よく聞いていた。なんでも、散歩がてら行けるような、なんちゃって富士を作るのが流行ったらしく、浪速富士もそのひとつであったらしい。しかし祖父がやっと明治22年生まれであるから、その私が、じっさいに浪速富士を観た記憶を持つ人に会ったことはない。もう少し長く屹ていたら祖父が覚えていたかもしれないのだが、なにせ一年ぽっきりでおしまいだったというのでは。

 

 小学生の頃によく生玉さんで遊んだのだが、いったいどこに浪速富士があったのか見当もつかないと思ってきた。ところがだ。

 きょうたまたま、何年かぶりに公園口から登ってみたところ、

              え!これか?と発見!!

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浪速富士1

 いやいや、浪速富士、いくらなんでももう少し高さはあったようなので、これがこのままそうだというわけではないけれども、「痕跡」ではあるのではないだろうか? 子供ごころにずっと、ここを上る折り、ここのところの坂の在り方というか、たたずまいが、意味不明だな?なんのためだ??と不思議に感じていたのだが、浪速富士の痕跡である!というのなら、とてもわかる気がする。

 

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どうかしら?

 

 

 

 

あわしまさん

今年のえべっさんは堀川恵比寿に行ってみたが、

夕方になったので、人が多すぎてどうにもならなかった。

まあ仕方がないので、それはともかく、

笹やお札をいただく所に「淡島神社」という札をみつけて、あれ?

 

淡島神社」は和歌山に本拠と思われる神社があるが、

大阪にもあるらしく、それがどうも?この堀川恵比寿らしい。

堀川恵比寿そのものが淡島神社なのか?

堀川恵比寿の中に淡島神社があるのか?

不明。

 

しばらく前に、うちの100歳近い老人と話していると、

「あわしまさん」という話が出てきたことがあった。

 

なんでも、戦後まもなくにもまだ「あわしまさん」はいたという。

「あわしまさん」は、祠かなにかを背負って門付けにくる人で、

みな女性だったそうだ。

「あわしまさん」は婦人病に効験がある。

 

「大阪史蹟辞典」では淡島信仰の起源や、

淡島明神の場所などが説明されている。

 天照大神の第六姫宮で住吉神の妃になったが婦人病で離縁となり神宝をもらって空船で堺から流され3月3日に淡島に着いた。江戸時代から淡島願人が衣類や髪を集めて歩きその収益で各地に淡島堂を建立した。

で、 

下寺町「光伝寺」境内に淡島明神があるという。

本家加太「淡島薬師」の分家、

なんだよく前歩いてるところかと驚いたが、

まだ実見には行っていない。

桜の頃になったら行ってみよう。

 

「大阪史蹟辞典(三善貞司)清文堂」は、学者が資料をひっくりかえしながら書いたものではなく、高校の国語教師をしながらの研究者の筆者が、歩いて回って調べた労作という。血が通っているのが肌で感じられる書物で、すっかり好きになった。図書館か古書店にしかないので、継続して借りながら、古書市でそのうちわりと値段の見合うものを言漬けて買おうと思う。

 

 

 

『織田作之助と蛍』

奥本大三郎随想集 織田作之助と蛍

 織田作好きならきっと繰り返し読みたくなる、あの「アド・バルーン」の中の高津神社表門筋から道頓堀への細かく記述された街の情景たち。しかし、この本の筆者は、なんと、そこに、”虫”を見ている。いろんな人がこの部分の描写について思いを語っているが、虫に目をつけている人というのは、はじめてだ。

 へえ虫?そんなの書いてあったっけ? 自分も、何度も読んでいるはずなのだがそう思った。虫?

 そもそも虫にはあまり関心がなく、おかげで、この筆者の本をあまり手にしたことがなかった。けれど、織田作に関する話ということで、ぜひ読みたかった。ところが読んでみると、「あ、やっぱ虫の話なんですね」と言いたくなるところ、面白かった。

 それから、奥本さんは大阪の南部の出身とのことで、織田作の大阪弁にその大阪南部の肌合いがあると感じられるそうだ。私は織田作の育った場所と上町大地を挟んだ隣あたりに育った者だが、織田作中の大阪弁にわずかなかすかなごく微少な肌合い差を感じることがあったのは、そうかそのせいか。

 私は北摂地域にある高校大学に通い、その後住むところも北摂となって何十年。あまりミナミの人ではなくなっていることもあって、大阪南部には縁がない。あんまり行ったこともない。だからおそらく大阪南部の言葉の肌合いを知らない。そこを織田作の言葉に感知していたのだろうか。

 実はこの本、図書館で並んでいたところを借りてきて読んだのだが、文章いい感じだなあと思ったので購入するかも。虫に興味がなかったために、このようないい文章を書く人だとはこれまで知らなかった。

織田作之助 (ちくま日本文学 35)

織田作之助 (ちくま日本文学 35)

 

  尾崎名津子「織田作之助論」に、織田が大阪という土地に関して記述しているのは「世相」「木の都」「アド・バルーン」の三作だけであるとあり、そう言われてみればそうだとはじめて気が付いた。この三作がみな載っている文庫は、このちくま版。

 

 

 

清水太右衛門殉職碑

 清水太右衛門さんは、明治時代、大阪駅の踏切番で、ある日、遮断機をくぐってもぐりこんだ幼女を救うために線路に飛び込み命を落としたという、国鉄踏切事故初の犠牲者。岐阜の人で、長良川の洪水によって職を失い大阪に来た。親分肌でまじめな働き者であり、子供好きでもあった方だとか。その殉職碑がJRガード下にある。

 

 このあいだ図書館で借りた「大阪キタの史跡と伝承Ⅱ」で、清水さんのことも碑のこともはじめて知り、今日、梅田スカイビルに映画を見に行くので、地下道を通らずに大深町のヘリを歩いて行ってみた。その通りがてらに殉職碑はあるはず。地図で確認したところ。

 

 でも、わからなかった。どこ??

 ネットで大阪ステーションシティ駐車場に向かう通路という説明があったので、向かってみたが、そこいらじゅうが工事中なのであった。工事のため隠れているか、あるいは移動させられているのだろうか? しかしそもそもがわかりづらすぎな場所だ。もう少しなんとかならないのか。

 

 ところで、この通路は、かつての大阪駅の北の端ホームあたり。昔、ここから夜行「きたぐに」に乗った。20日周遊券で北海道へ行った。

 

 そしてところで、あんまり人の通らない梅田の裏側をこうして歩いていたら、大阪もずいぶん大きな高いビルだらけになったんだなあ、とつくづく。20年ほど前にはなかった景色だ。

 

 本日は写真失敗。。。後日追加予定。

 

 

 

歴史の散歩道「史跡遊歩道」

 「大阪史跡連絡遊歩道計画」というものが昭和50年頃にでき、写真のようなシンボル柱が市内のあちらこちらに建てられた。

 真ん中の丸いマークは、樹木と発掘遺跡などを象徴する瓦であり、こういったものたちを美しく守っていこう、という計画だったろうと思う。

 がしかし、今日、シンボルがこんな感じで、汚れや落書きで悲惨な面持ちになっていることから推し量られるように、どこの「史跡遊歩道」もおおむね、けっこう悲惨な状況になっているなあと感じる、個人的には。

  それで、よく知らない人を史跡散歩に誘ったりは、しにくい。

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その現状の問題はともかくとして、

この上の写真のシンボルのばあいなど、もともと、存在する場所そのものが「史跡の地」と言われても、ちょっとどうなの?という印象ではないかな(写真が小さくてわからないかもしれないので言ってしまうと、いわゆるラブホ街)

  、、とか、若い頃には思ってしまっていたのだが、これが、だんだんややこしくこのあたりの歴史を知るにつけ、この状況も含めてまさにこれがこの地の歴史なんだな、とつくづく納得するようにはなった。

 

 自転車が邪魔で見えにくいが、いちばん上には「→竹本座跡」とある。竹本座は浄瑠璃の小屋だったところで、つまりこの写真の右のほうが芝居小屋の並んだ道頓堀。で、この写真は「芝居裏」と呼ばれたところの端緒あたりになる。芝居裏は歓楽街の裏通りであり、ややこしい休憩場所などが立ち並びやすい。

 

 実は、このあたりにほど近い小学校に通っていたのだけれど、その頃はまだラブホ街ではなくて、こどもの目には「ちいさな旅館?」と思われる風情の家が並んでいた。竹本座の時代からの空気をずっと受け継いできての今日だ。

 

はたてくらばし(端建蔵橋)

 

  ブログ生活復活!!

 

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「泥の川」という小説に出てくる土地のありさまがよくわからなかった。

ややこしい。

ややこしいてわからんな、と思いながらも何十年も放置していたが、昨年?か?・・・車でたまたま通りがかった折に降りて歩いてみたのだった。

もちろん「泥の河」の記念碑をはじめとして、いろいろ写真は撮ったのだが、いまひとつ、ぜひともアップしようとも思えない。殺風景なので。

 

それでもまあ、橋の写真でもひとつふたつ。

 

小説にはいくつも橋の名前がでてくる。川の名と橋の名がいろいろあって、どうなっているのか読んだだけではもうひとつよくわからない。そしてまた、それらの橋のなかでも「端建蔵橋」という橋の名前が意味不明で不思議だった。蔵とつくくらいだし、なにか由緒があるのか?とも思っていたが、わかってみると、これも明治になってできた橋だった。

 

中之島蔵屋敷の立ち並ぶところで、町外れである西の端っこまでも蔵は立っており、そういうところに架かる橋だから、この名前なんだそうだ。

こんな端っこまで蔵が建っとるなあ、という意味の名前なのだ。誰が考えた名前なんだろう。状況まんまで面白い。

 

はたてくらばしは、いろいろと被災しているが、そのたび架けなおされ、最終的には昭和38年にかさ上げ工事されて今の強い橋になった。東京オリンピックの前年だ。「泥の河」はそれよりまだまだ終戦直後寄りの時代なので、話の中の橋と今の橋は違っているわけで、風景ももうずいぶん違っているのだろう。

 

このあたりの風景は小説が描いている時代とはすっかり変わった。と、よくその時代のこのあたりを知っているらしき人が言う。けれど、その時代のこのあたりを見ていない私には、ここは今でも十分に「泥の河」なところ。橋や道路は近代的になっていても、空気が残っているようで、あの小説世界との違和感なし。

 

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とはいえ、おばけ鯉が出そうにはないものの、

なぜかかき船のいる風景はあったりの、この橋は「昭和橋」??

やっぱりややこしいのでよくわからない。行ってみたのに。

 

 

川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川 (ちくま文庫)

川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川 (ちくま文庫)