大阪ひろいよみ

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黒門市場と高津入堀川

黒門市場の発祥は19世紀江戸時代の寺の黒門の前の鮮魚商、と、最近は平然とあちこちに書かれてあるのを見かけるのだが、この説は立証されたのだろうか?黒門市場の名前と発祥は諸説あって謎だったと記憶するが。

 

黒門市場は住所でいうと、今は日本橋だが、昭和の頃は高津9番町周辺、そのまた昔は西高津新地2丁目周辺。その、高津9番町の住人だった綿谷武兵衛さんの私史 「高津の宮の昔より」によると、明治初年の頃はまだ市場の態ではなく、らしくなりつつあった段階だとか。又船で道頓堀から入った魚や野菜を商う露天商が、日本橋南詰から南へ、長町筋(=堺筋)に店を広げていた。

とはいっても武兵衛さんは昭和の人なので、これは西高津新地2丁目時代の住民だった祖父母等から聞いたことなのだろうが、なにしろ黒門市場で育った方の話なのだから信憑性がある。

 

露天商が出始めていたという日本橋南詰からどんどん南にくれば、現在の黒門市場の西側に着くので、やがてここが市場として定着したのだろう(博覧会の際に露天商たちが堺筋から追い払われたのだという説もある)。

 

ところでまた現在の黒門市場の東側には高津入堀川が流れていたので、そちらからの荷揚げも便利だ。

黒門市場から一筋手前の元高津入堀川沿いの民家が、現在でも、そういった荷揚げに便のよかろう造りを残していた。入堀川側から黒門側まで一階が突き抜けているのだ。

 今現在、黒門市場はアジア観光用マーケットに変貌してしまったので、それも変わってしまった様相だが、ほんの10数年ほどまえまで、実際に魚を扱っている家も見受けられた(入堀川はないのでトラックで運んでだろうけれど)

 

高津入堀川は昭和33年に埋め立てられた。私はその周辺でその数年前に生まれているのだが、そこに住むのは昭和40年代になってからだったので川だったのは見ていない。

 

 ※「私史・おおさか1・夜明け前 高津の宮の昔より」綿谷武兵衛 大阪市立中央図書館蔵

 

 この本では、露天商の移動は内国博覧会がらみで、黒門市場の開業は明治35年3月15日であるとしている。当時の新聞記事をあたっての説。