雁次郎横丁という謎
雁次郎横丁というのは、南海難波駅近辺の、よく知られた裏通りの名称だ。織田作之助の小説中では、その場所が詳しく丁寧に説明されている。
しかし、詳しく説明されてもいまひとつそれがどこなのか、はっきりしなかった。自分には日常的な通り道なのに、なぜかわからなかった。周囲の年寄りに聞いても「ええとなぁ、、」とたよりない。そのくせ大正や昭和初期生まれの彼らは「ほれあの雁次郎横丁あたりの、、」などと、その名を会話の中でフツーに現役に使っていた。で、私がはっきりしない彼らの答えに業を煮やして「要するにもう雁次郎横丁はないのか?」と言うと「そんなことない」と言うのだ。
雁次郎横丁は、織田作の記述を整理してざっくり言うならば、
二手に分かれて、
出口 漫才小屋(吉本の劇場)前と、精華小学校の裏通りとに出る。
というようなものだ。
が、実際に歩いてみると、この歌舞伎座裏からの横丁というのが無い。歌舞伎座裏とは有名な「自由軒」のある通りだが、南下する横丁なんてものはどうみても無い。
ここでかつては「やっぱりもうないのだ」と諦めてしまった。またあるいは織田は大阪の地名を詳しく記述しているがときどき単純ミスもしているようなので、これもそれかもしれないな、などとも思ったり、まあ、どうしても追及しなければということでもなかったので、この謎を長い年月、時々は思いだしながらも放置していた。
* *
雁次郎横丁がどこなのか、はじめて明確に教えてくれたのは、成瀬国晴「なにわ難波のかやくめし」という本だった。昭和10年代 昭和20年代 平成10年 3つの時代の千日前の街地図が載っていて、そこに雁次郎横丁の名も書き込まれている。これを見て織田作の記述をたどると答えは明解だった。
「ああ、あそこか!」と思った。
いや雁次郎横丁は「なくなっている」というのがやはり正しいのだけれども。
織田の記述している雁次郎横丁の「入口」と「出口」のうち、「入口」のほうが消滅している。かつて諦めた、あの自由軒のところだ。
しかし「出口」のほうがまだ残っているのだ。「ああ、あそこか」とそれを私は思いあたった。確かに、細い細い路地がそこにはある。
その路地に入ってみたことはない。行き止まりとわかるし飲食店などがあるわけでもないので入る理由がない。
精華小学校跡裏通りの路地
南海通り吉本劇場前の路地
この路地たちが現存しているために、このあたりの街並みというか出来具合のイメージというか、そういったものがあたりの空気に残存していて、それが年配者たちに「雁次郎横丁は今でもある」と思わせていたのかもしれないなと思う。