織田作之助の「?西横堀川」
コロナブックス「織田作之助の大阪」を開いていて、不思議に思ったことがある。
某記事の中で、織田の身辺雑記的な掌編『神経』の一節が引用されている。
かつて上町台地の東側に住んでいた織田が、
上町台地の西側の繁華街にやってくるときの、その「通い道」の描写だ。
ここにひっかかった。
<・・源聖寺坂を降りて、西横堀川に架かった末広橋を渡り、
黒門市場を抜けて千日前へかけつける・・>
西横堀川?
・・・・
西横堀川は、そんなところにはない。
西横堀川は、もっとずっと西。黒門市場の手前に、西横堀川はない。
これ、コロナブックスの引用間違いではないことを、全集所収で確かめてみたが、
確かに「西横堀川」と書いてある。
普通に『神経』という作品を読み進めている時には、気が付かなかったと思う。たまたまこの部分だけ引用されていたから「あれ?」思ったので、横堀川のことをよく知っている人でも、たいていは気が付いていないのではないか。
ほんとは気づいている人はいくらでもいて「まあそんなんどーでもええがな」という話なのかもしれないが、つまらんことが気になってしまう私なので、しかたない。
源聖寺坂(上町台地)を下ってきて、東に向かっていく織田は、
”西横堀川を渡って黒門・・”と言っている。
西横堀川は黒門を通り過ぎて、まだもっとずっと西だ。
目的地の千日前よりも、まだまだ西。
実は、ここで織田作が渡った「末広橋」は、
西横堀川ではなく、今はなき「高津入堀川」という堀川にかかっていたものだ。
織田作の頃のこのあたりには、道頓堀の東端辺りから南下する「高津入堀川」という堀川が流れていた。18世紀に掘られたもので昭和30年代に埋め立てられるまで存在していた。住人達は「川」とか「堀」とか呼んでいた。
私は実はこの入堀川の近辺で育ったが、埋め立てられたのがまだ私の幼い頃でもあり記憶にはない。しかし大人たちの会話によって、そこに川のようなものが流れて橋がいくつもかかっていたというのは、歴史知識として知っていた。
より大きな地図で 高津入堀川 を表示
今はない川が見られるグーグル地図ってすごい!
この地図で織田の足跡をたどる。
彼は地図右下あたりまで、東から下ってきた。で松屋町筋を少し北上、いま高津小になっているところの北で左折、セブンイレブン前をを通って、そして黒門市場に至った。で、そのセブンイレブンの次の辻あたりにかかっていた橋が「末広橋」であり、その下を流れていたのが高津入堀川なのだ。
余談だが、この末広橋のある筋は、むかしむかし「鐘筋」と呼ばれ、ちょっとした遊所だったこともあるらしいのだが、今はただのさびれた都会の端っこ。(鐘筋⇒かないすじ といったらしい。戦前は夜店が出たりしてそれなりに賑やかだったようだ)
セブンあたりから東側を見た写真
向こうに建つのは寺経営の幼稚園の壁。
この寺の鐘がその昔はここから見えていたから鐘筋ということだったらしい。
で、そのまま西向くと、
ここから織田は黒門市場に入った。
黒門を抜けてそのまま堺筋を渡って、まだまっすぐ行くと千日前。
西横堀川は、その千日前よりも、もっとずっと西だ。
織田は、西横堀川ではなく”高津入堀川を渡って黒門・・”と書くべきだった、
ということになる。
うーん、けど、誰も知らんかったもしれないなあ、高津入堀川。
織田は高津入堀川なんて誰も知らないから西横堀川と書いておいたのか?
いややはり高津入堀川などという名前そもそも知らなかったのではないかと思う。
近辺で育ったとさきほど書いた私自身が実はごく近年になって本を見て知ったのだったし、周囲の年寄連中に確かめても、川のことは覚えているが名前などは知らなかったようだ。ただ単に、川、川、と呼んでいたらしい。
しかしそうだとして、なんで織田はこれを「西横堀川」と書いているのかな。
私を含めた今の大阪人がそうであるように、当時の大阪人も、どこが東横堀でどこが西横堀だとか、あんまり考えたことはなかった、ということか。