大阪ひろいよみ

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「幻坂」ほんま本大賞受賞

 

幻坂 (幽BOOKS)

幻坂 (幽BOOKS)

 

 

単行本のカバーに惹かれて買った「幻坂」が、この夏、大阪ほんま本大賞を受賞。

おめでとうございました。愛読者として感慨。

しかし既に文庫も発売されており、受賞の際に紀伊国屋の入り口に積まれたのは装幀の変わった文庫だったのは、自分としてはちょっと残念だった。

 

「幻坂」は天王寺七坂がテーマの短編集だが、七つの坂のうちで私が最も好きな源聖寺坂の絵が単行本の表紙になっていたのだ。はじめて本屋で目にしたときにすぐ、あ、源聖寺坂、とわかり即購入。小説の新刊を店頭ですぐに買うのはここ数年ではかなり珍しい行動だった。

 

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これが源聖寺坂。

この、坂のさらに上方に曲がりくねるところがあり、「幻坂」単行本のカバー絵は、

そこのところの風情ある描写となっている。

 

それじゃ、なんでその風情ある部分の写真をここに載せないのか?

 

現地現状を知っている人ならわかるのだが、そこは今では残念ながら風情がなくなってしまって、あまりフォトジェニックではないからだ。

単行本カバーは絵なので、坂下の向こうに海に沈む夕日が見えるという、これも今では失われた風景が実現しているけれど。

 

それでもこの写真のように源聖寺坂は今もなかなか美しい。この本の中の一篇「源聖寺坂」という物語の登場人物も、大阪で一番好きだと言っていて、私と同意だ。

 

 文庫のほうの絵は、右のほうが口縄坂?

幻坂 (角川文庫)

幻坂 (角川文庫)

 

 

 

 

 

 

雁次郎横丁という謎

 

 雁次郎横丁というのは、南海難波駅近辺の、よく知られた裏通りの名称だ。織田作之助の小説中では、その場所が詳しく丁寧に説明されている。

 

 しかし、詳しく説明されてもいまひとつそれがどこなのか、はっきりしなかった。自分には日常的な通り道なのに、なぜかわからなかった。周囲の年寄りに聞いても「ええとなぁ、、」とたよりない。そのくせ大正や昭和初期生まれの彼らは「ほれあの雁次郎横丁あたりの、、」などと、その名を会話の中でフツーに現役に使っていた。で、私がはっきりしない彼らの答えに業を煮やして「要するにもう雁次郎横丁はないのか?」と言うと「そんなことない」と言うのだ。

 

雁次郎横丁は、織田作の記述を整理してざっくり言うならば、

入口 歌舞伎座(現ビッグカメラ)の裏通りの横丁を南下して、

二手に分かれて、

出口 漫才小屋(吉本の劇場)前と、精華小学校の裏通りとに出る。

というようなものだ。

 

 が、実際に歩いてみると、この歌舞伎座裏からの横丁というのが無い。歌舞伎座裏とは有名な「自由軒」のある通りだが、南下する横丁なんてものはどうみても無い。

 

 ここでかつては「やっぱりもうないのだ」と諦めてしまった。またあるいは織田は大阪の地名を詳しく記述しているがときどき単純ミスもしているようなので、これもそれかもしれないな、などとも思ったり、まあ、どうしても追及しなければということでもなかったので、この謎を長い年月、時々は思いだしながらも放置していた。

 

* *

 

 雁次郎横丁がどこなのか、はじめて明確に教えてくれたのは、成瀬国晴「なにわ難波のかやくめし」という本だった。昭和10年代 昭和20年代 平成10年 3つの時代の千日前の街地図が載っていて、そこに雁次郎横丁の名も書き込まれている。これを見て織田作の記述をたどると答えは明解だった。

 

「ああ、あそこか!」と思った。

いや雁次郎横丁は「なくなっている」というのがやはり正しいのだけれども。

 

 織田の記述している雁次郎横丁の「入口」と「出口」のうち、「入口」のほうが消滅している。かつて諦めた、あの自由軒のところだ。

 しかし「出口」のほうがまだ残っているのだ。「ああ、あそこか」とそれを私は思いあたった。確かに、細い細い路地がそこにはある。

 

その路地に入ってみたことはない。行き止まりとわかるし飲食店などがあるわけでもないので入る理由がない。

  

 

f:id:biloba:20140926165223j:plain 精華小学校跡裏通りの路地

f:id:biloba:20140926164934j:plain 南海通り吉本劇場前の路地

 

 この路地たちが現存しているために、このあたりの街並みというか出来具合のイメージというか、そういったものがあたりの空気に残存していて、それが年配者たちに「雁次郎横丁は今でもある」と思わせていたのかもしれないなと思う。

 

 

 

世相・競馬 (講談社文芸文庫)

世相・競馬 (講談社文芸文庫)

 

 

 

 

 

近日復活します!

放置状態となっていましたが、近日復活いたします。

よろしく♪

心斎橋大丸の石灯籠 (大坂から大阪へ)

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                      ▲表紙絵は慶応4年の大阪城炎上 

 

「阪」という字は何に使う?

 「大坂」という表記がいつ「大阪」に変わったのか、どうして変わったのか、という、どうでもよさそうながら気になる問い。決定的な証拠ある正解は今のところ無いらしい。江戸の末期に「土に反る」という意になるのをきらって「阪」を使い始めたという説が有力。ネット検索するとこの説を中心とした解説がたくさん見つかる。

 

 私自身は、そもそもこの「阪」という漢字はいったいなんなのか?!ということのほうが、気になっていた。この漢字は「大阪」という地名以外に一般に使われていることがあるだろうか?

 考えてみると「三重県松阪市」も「阪」だ。そのほか人名がいくらかある。他には無い。一見ありきたりに見える字なので気が付かなかったが「阪」は埼玉の「埼」と同じく特定地名や人名表記にしか使われていない漢字なのだ。

 

「阪」と「坂」は意味は同じ。辞書によると「阪」のほうが「坂」の本字であったらしい。中国には「阪泉」という伝説の戦いの地があるらしい。しかしこれも地名だし、中国でもこの字は一般にそう使われてはいなかったのではないか。中国語を知らないし漢文にも疎いが、辞書の表記内容から類推してそう考える。

 

なのに誰がどこからこんな字を引っ張り出してきたのだろう?それが不思議だ。もしかして素人の単なる思いつき? ・・「土へんはどうもいかんなあ。こざとへんでおんなじような字があるんと違うか?」とかそんな感じ。そういうことありそう。そんな気が前々からしていたのだが、その思いを更に強くする自分にとっては新発見の事項が、この「史陽選集43」の中にはあった。

 

 心斎橋大丸の石灯籠

なにしろ「阪」は幕末の頃から使われ始め、維新後も「阪」と「坂」の共存が続いていたらしい。べつに維新になって、これからは「大阪」に決定だ!というようなことになったわけでもないようだ。なんとなーく少しずつ大坂から大阪になっていったらしい。これが「思いつきが始まりかも」と考える要因のひとつ。そして今回の新発見事項で、その考えが強力になった。

 

「史陽選集43」に書かれた<大坂から大阪>の変遷を以下にまとめてみる。

 

1498年の蓮如上人の書き物に「生玉ノ庄内大坂に坊舎を建立」とある(石山本願寺の元である)。これは今の中央区法円坂あたりで「大坂」はそのあたりにあった坂の名前である。「小坂(おさか)」と書かれた文献もある。

   ↓

時代くだり戦乱の後、石山本願寺の地は豊臣のものとなり、城がつくられる。

そのとき「生玉ノ庄」にあった生玉神社を天王寺のほうに移転させた(現在の生国玉神社)ので、生玉の地名もここからは去り、あとに残ったのは「大坂」という坂。それで大坂城と名付けた。

   ↓

のち、江戸時代の文学者等すべて「大坂」と表記している。

   ↓

いっぽう「大阪」のほうの初見は、京都滝尾神社内の石灯籠の彫文字「大阪店内」(1802年)である。「大阪店内」というのは心斎橋大丸のことだ。(滝尾神社は大丸の創始者・下村彦右衛門が熱心に参り、のち下村一族の資産で立派に整備された神社)

そして、この4年後に出版された地図にも「摂州大阪地図」とある。

これらに関して「摂陽落穂集」(1808)の筆者が、土へんの坂は「土にかえる」の意になるのを忌み嫌って「阪」としたらしい、という説を紹介。

 

これこれ、この「心斎橋大丸」石灯籠が、この本での発見だ。

ほかは既にどこかで読んだ話だったが、これは初耳だった。

 

最初に書いたとおり「土にかえる」をきらったというのは有力説であるわけだが、根拠がいまいちわからなかったので「ほんまかな?誰がやった?」と思っていた。しかし、この心斎橋大丸の話を知ると、まさに「そうか!ならそれに違いない!」と思われることだ。近鉄国鉄が「金を失う」との意になるのを忌み嫌って金偏に「矢」という字を使っていたのと同じセンスであり、たいへんありそうな話だ。

 

心斎橋大丸の広報か何かの人か、あるいは石の彫師かが、いちばん最初に「大阪」と書いたのだったかどうかはわからないが、そういった大丸石灯籠関係者の誰かが「大坂より大阪のほうがええな」と思ったのは確かなのではないだろうか。その際「阪」の字の持つ意味を知っていたかあるいはよく知らなかったら調べたかしたと思うが、まあ同じような意味やし、ええやろ、ということで使ったのではないか。

 

「阪」の「坂」との意味の違いを、敢えて何か探していうならば「こざとへん」だ。「こざとへん」は丘や盛り土を表す。まあ、それもあるし、こっちのほうがええやろ、ということだったのではないか。だとすると、結局それ以上に深い意味はなさそうな気がするのだ。

 

でも、平気で歴史的地名を廃棄する為政者などが強引に変えたわけではなく、やがて時間が経つ中で民間でぼちぼちと変わっていったということのようなので、よかったのではないか。「大阪」OK。

 

ところで松阪は大坂が大阪になったのに倣って松阪にしたというが、これもネット情報。ほんとだろうか。阪は実用例がなさそうなのにえらく「良い字」と思われていたみたいだな。やっぱり「なんだろうこの字は?」の謎は消えない。

★★

なお、この本が地名の表記について書いているのは、実は、最後の10ページほどだけだ。開城から新政府の立ち上がりへと向かう混乱の時代の大坂=大阪の為政の様が本題である。堺事件、大阪が首都になっていたかもしれなかった話、川口居留地の様子、などなど。

 

 

 

 

 

 

 

出入橋

 

梅田のはずれにひっそり残る「出入橋」欄干のみで川は無し

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 八百八橋と言われた浪速の橋ばし

ひとつひとつそれぞれに 古来からの堂堂の歴史物語が ある

・・ものなんだけれど この「出入橋」の歴史は

なぜだか聞いたことがなかった

 

曽根崎新地蜆川あたりという風情ある場所だというのに

名前もなんだか由緒ありげなのに なんで?

きんつば屋の代名詞になってしまったせい?

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そういうわけでは なかった

実は「出入橋」は

明治になってからできたのだった

だからとうぜん歴史時代の逸話はない

 

歴史時代から市街の水運が発達していた大阪

これからは陸運だ!という新時代を迎えても

いまだ川や掘割の水運のほうがずっと頼りになった

 

そんなわけで 安治川から大阪駅まで荷物を運ぶため

明治5年から新たな掘割が作られた

その掘割の出入り口に掛かった橋がこの「出入橋」

役目としても近代の橋だったのだ

 

掘割は昭和になっても拡張されたりして

いま残っている欄干は昭和10年竣工の石畳のもの

 

のち昭和40年ごろ

掘割は高速道路建設で埋め立てられ(やはりここも・・)

欄干だけが残された

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 さびれて放置されているけれど

なかなかいい感じで ずっと残って欲しい眺めだ

大阪の橋ものがたり

大阪の橋ものがたり

 

 

*一年以上の放置を終えてブログ名も決めて(いちおう)再開!

 

 

 

 

安居天神のねむり猫

           

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   まるで置物のように動かなかった。

 

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